デザインの現場で「ユーザー理解」という言葉を聞かない日はほとんどありません。インタビューをして、観察して、得られた発話を付箋に書き出し、ペルソナやジャーニーマップにまとめる。手順はすっかり整っています。しかし、その手順をひととおり終えたとき、私たちは本当に誰かを「理解した」と言えるのでしょうか? 今回は、理解の方法ではなく、理解という営みそのものの重さを教えてくれる三冊を並べてみたいと思います。
応答のない相手とのあいだで──『語りかける身体』
『語りかける身体』が描くのは、植物状態と呼ばれる患者と、その人をケアする看護師とのあいだに生まれるやりとりです。言葉も表情も返ってこないように見える相手に、看護師は語りかけ、手を添え、わずかな変化を感じ取ろうとします。そこにあるのは、発話を集めて分析するのとはまったく別の「わかり方」です。
考えてみれば、ユーザーインタビューは相手が自分の経験を言葉で説明してくれることを前提にしています。けれども、人が自分の経験を言葉にできる範囲はそう広くありません。言葉にならない領域に向けて、身体ごと注意を向け続けること──。この本は、理解が一方的な情報収集ではなく、関係のなかで少しずつ立ち上がってくるものだと気づかせてくれます。
別の身体から世界を見る──『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』は、視覚障害を「見えないという欠如」としてではなく、見える人とは別の仕方で組み立てられた世界として描きます。見える人が目で一度に把握する空間を、見えない人は音や手ざわりや言葉を手がかりに、違うかたちで組み立てている。そこにあるのは補われるのを待つ不足ではなく、それ自体で筋の通った世界の見え方です。
ユーザーを理解しようとするとき、私たちは知らず知らずのうちに自分の身体を基準にしています(自分ならこう感じる、自分ならここで迷う、というふうに)。この本が促すのは、その基準をいったん外してみることです。理解とは、相手を自分の枠に当てはめることではなく、相手の世界の組み立て方をたどり直すことなのかもしれません。
ラベルを一枚ずつ剥がす──『ネット右翼になった父』
『ネット右翼になった父』は、亡くなった父がなぜ変わってしまったのかを、息子である著者が追いかけた記録です。はじめに貼られた「ネット右翼」というラベルは、調べ、話を聞き、記憶をたどるうちに少しずつ剥がれていきます。そのたびに父は、単純な像から、矛盾を抱えた一人の人間へと戻っていきます。
デザインの仕事でも、私たちはユーザーを「初心者」「ライトユーザー」「離脱層」と名づけます。名づけなければ議論は進みません。しかし、そのラベルが相手を見る目を先回りして決めてしまうこともあります。身近な家族でさえ、これほどの手間をかけなければ理解に近づけない。その事実は、数回のインタビューで「わかった」と言ってしまうことへの、静かな警告になっているように思えます。
「理解した」はいつも仮のもの
以上、三冊を並べてきました。一冊目は言葉の外にある理解の可能性を、二冊目は自分の身体を基準にしない理解のあり方を、三冊目はラベルを外していく理解の重さを示しています。三冊を通して見えてくるのは、「ユーザーを理解した」という言葉が到達点ではなく、いつでも仮のものだということです。理解したと思った瞬間に、次に問うべきことを探しはじめる──。その構えこそが、「ユーザー中心」という言葉の中身なのではないでしょうか。








