デザインシステムを整え、ガイドラインを書き、プロダクトをリリースする。だが出したその日から、想定していなかった使われ方が見つかり、新しい要望が届き、手直しが始まる。デザインの仕事には、なかなか「完成」が訪れない。版数だけが積み上がっていくなかで、私たちはいったい何をもって「できた」と言っているのだろうか。
ひとつの答え方は、完成などそもそも幻想であり、デザインは永遠のベータ版なのだと言いきってしまうことだ。だがそれは問いを解いたというより、問いを手放しただけのように思える。終わりのない仕事は、本当に未完成のままなのか。それとも、組み替えるべきは「完成」ということばの側なのか。以下、辞書づくりの現場、仮説の推論、無限の哲学という三つの棚から、この問いを考えてみたい。
ことばに追い越される仕事──『舟を編む』
『舟を編む』は、営業部から辞書編集部へ引き抜かれた馬締光也が、仲間とともに新しい辞書『大渡海』を編みあげるまでの十数年を描く小説である。用例を集め、語釈を練り、校正を重ねる。だがその気の遠くなるような作業のあいだにも、ことばは生まれ、意味を変え、使われなくなっていく。辞書とは、刊行された時点ですでにことばの変化に追い越されはじめている書物なのだ。
それでも編集部の人びとは、辞書を出すことをやめない。完璧を待っていたら、舟はいつまでも岸を離れないからである。ここに描かれているのは、終わらない仕事にあえて区切りをつけ、そのうえで手を入れ続けることを引き受ける人びとの姿だ。リリースのたびに「まだ足りない」と感じる者にとって、この覚悟は他人事ではないだろう。
誤りうることを織り込んだ推論──『アブダクション』
『アブダクション』は、演繹でも帰納でもない第三の推論を、パースの思想に沿って解きほぐす。手元の事実をうまく説明できないとき、「こう考えれば辻褄が合う」という仮説へと飛躍する。この飛躍は確実ではなく、間違っているかもしれない。だからこそ仮説は確かめられ、崩れれば立て直される。
デザインの提案もまた、この意味での仮説である。調査からひとつの案を立て、試し、うまくいかなければ組み直す。本書を読むと、このくり返しは答えにたどり着けないことの言い訳ではなく、知識が育っていくときのまっとうな筋道なのだと思えてくる。いずれ直されるということは、仮説の欠陥ではない。それはこの推論の、いわば仕様なのだ。
終わらないことは欠けていることか──『無限論の教室』
『無限論の教室』は、先生と学生の対話を通して無限の哲学へ分け入る一冊である。無限を「すでにすべてがそろった、ひとまとまりの全体」とみなす見方と、「いくらでも先へ続けられる」という手続きとしてとらえる見方。対話はこの二つのあいだを、数式にほとんど頼らず、ことばだけを手がかりに行き来する。
後者の見方に立つと、終わりがないことは何かが欠けていることを意味しない。「どこまでも続けられる」ということそれ自体が、ひとつの確かなあり方になる。翻ってデザインシステムやプロダクトも、あらゆる画面と場面を前もって並べきった全体としてではなく、新しい場面が来たときにどう続ければよいかが定まった規則として考えることができるのではないか。
おわりに──続け方を手渡す
一冊目は、ことばの変化に追いつけないと知りながら区切りをつける人びとを描いていた。二冊目は、直されることをあらかじめ織り込んだ推論のかたちを示し、三冊目は、終わりのないものをひとつのあり方として考える道筋を開いていた。三冊を重ねてみると、完成とはすべてを埋めて閉じることではないのかもしれない、という見通しが立ってくる。
出したあとも続く仕事を、何と呼べばよいか──。次にそれを手に取る誰かが、その先をどう続ければよいかわかる状態まで届いたなら、それを「完成」と呼んでかまわないはずだ、と筆者は思う。完成ということばを手放すのではなく、その意味のほうを組み替えること。終わりのない仕事に必要なのは、おそらくそちらである。











