デザインの仕事は、多かれ少なかれ人を動かすことを目指している。オンボーディングで最初の一歩を踏み出させ、通知で再訪を促し、心地よい操作で習慣をつくる。行動変容ということばは、いまや企画書のなかで肯定的な響きをもって使われている。だが人を動かすことが、人をつくり変えることへ踏み込むのはどこからなのだろうか。
ひとつの答え方は、ダークパターンのような露骨な操作だけを悪とし、それ以外の「よい誘導」は問題ないとする線引きだ。だがこの線は思いのほか頼りない。誘導がうまくいくほど、動かされた側はそれを自分の意思だと感じるからである。悪意の有無で線を引くだけでは、善意のデザインが人を変えていく過程は見えてこない。以下、物語の力、〈身〉の構造、書き換えられる電脳という三つの棚から、この問いを考えてみたい。
反論を眠らせる力──『ストーリーが世界を滅ぼす』
『ストーリーが世界を滅ぼす』は、人間を物語る動物としてとらえたうえで、その力の暗い面に目を向ける一冊である。物語は人びとを結びつけ、共有された価値を手渡してきた。だが複雑な現実を筋の通った話にまとめる力は、そのまま善と悪を割りふり、敵をつくり出す力にもなる。著者によれば、物語に引き込まれているあいだ、人は反論することを忘れやすい。物語は、説得よりも深いところで人を動かすのだ。
デザインの現場で、ストーリーはもっぱら頼もしい道具として語られる。ユーザーストーリー、ブランドの物語、体験のナラティブ。それらが人を動かすのは、まさに反論の余地を小さくするからではないか。本書が突きつけるのは、物語のうまさと危うさは同じ力の表と裏だということである。うまく語られた体験ほど、ユーザーは自分がどこへ導かれているのかを問わなくなる。
気づかないうちに身につく──『〈身〉の構造』
『〈身〉の構造』は、「身体」ということばを避け、〈身〉という日本語から人間のあり方を考え直す。「身につく」「身にしみる」。こうした言い回しが示すように、〈身〉は皮膚の内側に閉じた物体でも、それを操る精神でもない。道具や環境や他者と溶け合いながら、そのつど形を変えていく経験の場である。
この見方に立つと、人を動かすのは物語だけではないことがわかる。くり返し触れるうちに、操作は身につき、やがて考えるまでもない動作になる。スワイプで次を見る、通知の音で画面を開く。それはもはや説得された結果ではなく、〈身〉の一部になった振る舞いである。使いやすい道具を目指すことは、道具を〈身〉に溶けこませることだ。だとすれば、使いやすさの追求とつくり変えとは、思いのほか近いところにある。物語には反論できても、身についた習慣には反論のしようがないのだから。
書き換えられても残るもの──『攻殻機動隊(1)』
『攻殻機動隊(1)』の世界では、身体は義体に置き換えられ、脳は電脳化されてネットワークにつながっている。主人公の草薙素子は、生身の部分をほとんど残さない全身義体の捜査官だ。この世界では、他人のゴーストに侵入して偽の記憶を植えつけることさえできる。記憶も知覚も書き換えられるとき、それでも「その人」として残るものは何なのか。作品はこの問いを、答えを急がずに描いていく。
一冊目が心を、二冊目が身を扱っていたとすれば、本書はその両方が書き換えの対象になった極限を見せてくれる。だが読み終えて印象に残るのは、書き換えの恐ろしさだけではない。巻の終わりで素子は、自分を大きく変えてしまう選択を、みずから引き受ける。書き換えられることと、変わることを選ぶこと。外から見れば同じ変化でも、この二つは決定的に違うのではないか。
おわりに──変わったことを引き受けられるか
一冊目は、反論を眠らせることで人を動かす物語の力を描いていた。二冊目は、説得さえ経ずに道具や習慣が〈身〉に溶けこんでいくさまを示し、三冊目は、心も身も書き換えられる世界で、それでも残る選択のかたちを見せていた。三冊を重ねてみると、人をまったくつくり変えないデザインは、そもそもありえないのではないかという見通しが立ってくる。道具は使われるかぎり、使う人の〈身〉を変えていくからだ。
人を動かすデザインは、人をどこまでつくり変えてよいのか──。問うべきは「どこまで」という量ではない、と筆者は思う。変わったあとのその人が、変わったことに気づき、それを自分のものとして引き受けるか、手放すかを選べるかどうか。線はおそらく、変化の大きさではなく、その選択が残されているかどうかに引かれる。










