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「誰にでも使える」の「誰」に、入っているのは誰か

「誰にでも使える」と書くとき、私たちは誰を思い浮かべているのか。「みんな」から抜け落ちる人がどこで生まれ、どうすれば数えられるのかを考える三冊。

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フェミニズムはみんなのもの 書影人間はガジェットではない 書影コミュニティ・アーカイブをつくろう! 書影

「誰にでも使える」は、デザインの仕様書や企画書にくり返し現れることばだ。アクセシビリティの基準に沿い、年齢も環境も違うペルソナを並べ、できるかぎり多くの人に届くように設計する。それでも出してみると、自分はその「誰」に入っていなかったと気づく人が現れる。「誰にでも」と書いたとき、その「誰」には誰が入っていたのだろうか。

ありがちな答えは、想定する人をもっと広げればよい、というものだ。ペルソナを増やし、チェックリストを長くし、見落としをひとつずつ埋めていく。それ自体は必要な仕事である。だが、誰を書き足すかを決めているのも、つくる側の視野だ。そこから見えない人は、リストがどれほど長くなっても書き足されない。数え漏れは、リストの短さよりも、リストを書いている場所から生まれるのではないか。以下、運動の入門書、技術者の自己批判、震災の記録という三つの棚から、この問いを考えてみたい。

数えられなかった人びと──『フェミニズムはみんなのもの』

『フェミニズムはみんなのもの』は、ブラック・フェミニストのベル・フックスが、フェミニズムとは何か、どんな運動をしてきたのかを平易に説いた入門書である。フックスはフェミニズムを、性差別とそれにもとづく搾取や抑圧をなくそうとする運動として定義する。問題は男性ではなく性差別そのものであり、だからこの運動は男性も含めた「みんなのもの」だという。ただし本書は、その「みんな」が実際には広くなかった歴史も隠さない。運動の顔として注目を集めたのは、主に白人で中流以上の女性たちだった。黒人の女性たちは最初から参加していたのに、運動の「スター」になることはなかったと著者は書く。

ここで目を留めたいのは、数え漏れが悪意から生まれたわけではないという点だ。中心にいた人たちは、自分たちの抱える問題を、女性全体の問題だと考えていた。自分の条件を「みんな」の条件と取り違えることは、つくる側にいる者なら誰にでも起こりうる。「誰にでも使える」の「誰」も、多くの場合、つくり手自身と、つくり手が思い浮かべられた人の範囲にとどまっている。本書が美や育児の章と並べて、階級や人種の章を置いているのは示唆的だ。「みんな」を名乗るには、中心から見えにくい問題を同じ重さで並べる必要がある、と読める。

形式は少数の手で決まる──『人間はガジェットではない』

『人間はガジェットではない』の著者ジャロン・ラニアーは、「バーチャルリアリティの父」と呼ばれる技術者である。その彼が危ぶむのは、人の新しい体験の形式が、ごく少数のつくり手によって決まってしまうことだ。たとえば電子楽器の規格MIDIは、鍵盤の音を記録するためにつくられたが、やがてデジタルの音楽全体の土台になった。鍵盤の音に収まらない表現は、そのぶん扱いにくくなる。いったん広まった設計は変えられなくなり、後から来た人はそれを当たり前の前提として受け取る。ラニアーはこれを「ロックイン」と呼び、クラウドの力を称えるあまり個人が低く見積もられていく風潮とあわせて批判する。

デザインの側から読むと、「誰にでも」が決まるのは、配慮のことばよりも手前の、形式の段階だとわかる。入力欄の数、選択肢の並び、名前や性別の欄のつくり。そうした形式には、つくった人の思い描く人間像が埋め込まれている。形式に収まらない人は、使えないか、自分を形式に合わせて削るかを迫られる。一冊目が数えられない人を見せたとすれば、二冊目は、数えられた人のなかでも形式に収まらない部分が切り落とされることを示している。しかもその形式は、少数の人が決め、多くの人が従うことになる。

記録する側に立つ──『コミュニティ・アーカイブをつくろう!』

『コミュニティ・アーカイブをつくろう!』は、東日本大震災のあとの仙台で、市民と専門家とスタッフが協働して続けてきた記録の取り組みから生まれた本である。そこでは映像をはじめとするさまざまなメディアで、震災以後の日々が記録されてきた。本書は自らを、震災そのものではなく、記録と記憶の方法についての本だと位置づけている。地域に根ざしたアーカイブを「かんがえる」「つくる」「つかう」ための手立てが、実践の歩みとともに示される。出来事を残すのは誰か、アーカイブは誰のものか、という問いが全体を貫いている。

アーカイブは、何を覚えておくかを決める設計である。記録する人が専門家や機関に限られれば、残るのはその人たちの目に映ったものになる。そこで暮らしてきた人が自ら記録する側に立つと、残るものの範囲が変わる。ここで「みんな」は、配慮によって広げられる対象ではなく、つくる側に加わる人として広がっている。本書がつくり方を説く本として書かれていることも、この点と無関係ではないだろう。つくり方を手渡すことは、つくる側に立てる人を増やすことでもある。

おわりに──つくる側の席を空ける

一冊目は、「みんな」を掲げた運動が、中心から見えない人を数え落としてきた歴史を示していた。二冊目は、体験の形式を決める少数の手が、形式に収まらないものを切り落としていくことを描いていた。三冊目は、記録される側が記録する側に立つことで、残るものが変わることを見せていた。三冊を重ねると、数え漏れを減らす鍵は、つくり手の想像力を広げることだけにはないと見えてくる。

「誰にでも使える」の「誰」に、入っているのは誰か──。入っているのは、つくる側に立つ人が思い浮かべられた人までだ、と筆者は思う。想像力を鍛えることは欠かせないが、それだけでは自分の視野の外にいる人には届かない。だとすれば、「誰」を広げる確かな方法は、数えられてこなかった人を、調べる対象としてではなく、つくる側に迎え入れることだろう。「みんな」は、配慮して広げるものではない。つくる側の席を空けることで、はじめて広がるはずだ。

  1. フェミニズムはみんなのもの 書影

    フェミニズムはみんなのもの

    ベル・フックス 著/堀田 碧 訳エトセトラブックス

  2. 人間はガジェットではない 書影

    人間はガジェットではない

    ジャロン・ラニアー 著/井口 耕二 訳ハヤカワ新書juice

  3. コミュニティ・アーカイブをつくろう! 書影

    コミュニティ・アーカイブをつくろう!

    佐藤 知久、甲斐 賢治、北野 央晶文社

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