プロダクトは、出した瞬間からつくり手の手を離れていく。想定していない人に使われ、想定していない目的に転用され、ときには誰も望まなかった結果を生む。そのとき、つくった人はどこまでを負うべきなのだろうか。
ありがちな答えは二つある。ひとつは、道具は中立であり、使い方の責任は使う人にあるとする答えだ。もうひとつは、あらゆる使われ方を事前に洗い出し、リスクをつぶしてから出すべきだとする答えである。前者はつくり手の荷を軽くしすぎ、後者はつくり手に不可能を課している。つくったものがどこへ届くのかは、出す前にはほとんど見えないからだ。以下、一本の小説、食の歴史、合理性の限界という三つの棚から、この問いを考えてみたい。
予報が事件の入口になる──『オービタル・クラウド』
『オービタル・クラウド』の主人公、木村和海は、流れ星の出現を予報するWebサービスを営んでいる。ある日彼は、イランが打ち上げたロケットの2段目が、大気圏に落ちるどころか逆に高度を上げていることに気づく。趣味の延長のような小さなサービスが、国家と軍を巻き込む事件の入口になり、和海はそのなかへ引き込まれていく。技術は誰のもので、どこまで届くのか。物語はその問いを、テクノスリラーの速度で押し進めていく。
デザインの側から読むと、この小説の出発点は示唆に富む。和海のサービスは、世界を揺るがすためにつくられたものではない。それでもネットワークにつながった時点で、それはつくり手の思惑と無関係な文脈に置かれうる。いまのプロダクトの多くも、同じ条件のもとにある。だが一方で、異変に気づけたのは、和海が自分のサービスを通して空を見続けていたからでもある。つくったものの行く末に最初に気づけるのは、それを見ているつくり手なのかもしれない。
誰も望まなかった帰結──『食の実験場アメリカ』
『食の実験場アメリカ』は、アメリカの食文化がどのように形づくられてきたのかをたどる。先住民の食、黒人奴隷の食、各国から渡ってきた移民の食。持ち寄られたものが混ざり合い、バーベキューやハンバーガーといった国民的な食べ物が生まれた。やがて効率と画一化を突き詰めたファーストフードが国じゅうに広がり、その先に肥満という帰結が待っていた。本書はアメリカを、食がくり返し組み替えられてきた実験場として描いている。
ここで目を留めたいのは、肥満という帰結を望んだ者は誰もいないということだ。早く、安く、どこでも同じ味を出す。そのひとつひとつは、当時の暮らしに応える合理的な工夫だったはずである。帰結は、無数の工夫が何十年もかけて積み重なった果てに、ようやく姿を現した。一冊目の帰結が突然の事件として現れたのに対し、こちらは気づかれないほどゆっくり進む。帰結が遅れて現れるとき、その責任を誰か一人に帰すことはもうできない。
見通せないものが残る──『理性の限界』
『理性の限界』は、架空のシンポジウムに集まった論者たちの対話という形で、合理的に考えることの限界をたどる。投票の結果は選び方しだいで変わり、科学には原理的に確定できないことがあり、論理はそれ自身の正しさを証明しきれない。投票のパラドックス、不確定性原理、不完全性定理という、分野の違う三つの限界が一冊のなかに並ぶ。そこから導かれるのは、理性を捨てることではなく、理性の届く範囲を知るという態度である。
この本を、つくり手の責任という問いに重ねてみる。帰結を「すべて予見せよ」という要求は、理性にその限界を超えることを求めている。どれほど丁寧にリスクを洗い出しても、見通せない領域は残る。それは努力が足りないからではなく、予測という営みそのものの限界である。だとすれば、つくり手に求めうるのは予見の完全さではない。見通せないものが残ると認めたうえで、何を引き受けるかである。
おわりに──見張りを降りない
一冊目は、小さなサービスがつくり手の思いもよらない場所へつながっていくさまを描いていた。二冊目は、合理的な工夫の積み重ねが、誰も望まなかった帰結を遅れて連れてくることを示し、三冊目は、そうした帰結をあらかじめ見通すことに原理的な限界があると教えていた。三冊を重ねると、帰結のすべてを負うことも、何も負わないことも、つくり手の答えにはならないことが見えてくる。
意図しなかった帰結は、誰のものか──。誰か一人のものではないが、つくった人のものでもある、と筆者は思う。ただし、つくった人が負えるのは予見ではなく、見届けることだ。出したものがどこへ届き、何を起こしているのかを見続け、異変に気づいたら引き受け直す。和海が空を見張り続けたように、自分のつくったものの見張りを降りないこと。責任の範囲は、おそらく予測の届く範囲ではなく、見届けようとする意思の届く範囲で決まる。











